2013年1月20日の日記


朝五時頃に目が覚めた。ちょうど日が昇る頃で、窓外の街並みがオレンジ一色に染まって、ビルも日光を照り返してキラキラしているのが目に眩しかった。
昨夜はベッドに寝転がって遅くまでアニメを見ていた。お陰で日中眠気をこらえるのがつらかった。

ホテルと同じビルにテナントとして入っている店で朝食を済ませる。いわゆる旅館なんかで出される白米に味噌汁と焼き魚、それに沢庵と生卵が付いたような食事だった。一般的に朝食として想像されるポピュラーな組み合わせで、逆に新鮮味があった。美味しかった。

結婚式場に向かう。
会場がいわゆる一流ホテルで、あとで聞いたところによると先日某大物芸能人もここで式を上げたらしい。これまで自分に縁のなかった場所に急に放り込まれて物珍しさからやたらキョロキョロしていたような気がする。エントランスに立ったときはなんとも感じなかったのに、中に入ってすぐ天井の高さに息を呑む。天地の狭間に押しつぶされそうな息苦しさすらあった。豪華絢爛というのはこういうのを言うのだ。 
通路を歩いていると噺家の集まりと思しきプレートが掲げられている部屋もあって、普段ならまず関わることのない世界の一端に触れていることが妙におかしくてたまらなく、すると不思議と笑いがこみ上げてきてこらえるのに苦労した。

親戚相手に挨拶してまわるのも御免だった。かといってすることもなかったから親族控え室ではずっと手持ち無沙汰に椅子に掛けていた。
親戚の子供が走り回っていた。それを眺めている内にたしか二三年位くらい前、上の子ががほとんど赤ん坊みたいだったころに抱っこしたことを思い出した。もちろん彼女らはそんなこと覚えていないだろう(そもそも下の子は生まれてすらいない)。親戚連中の集まりなんかでよく自分が物心付く前のことを引き合いに出されて会話が進んでいくことにこそばゆさを覚えていたのを思い出す。人を戸惑わせるその無邪気さが気持ち悪かったのか?自分の人間性が置き去りにされて、大人の一人相撲に付き合わされているようで苛立っていたのか?それとも自分一人だけがそれを知らないのに、その中心にはたしかに自分がいたらしい周囲との記憶の齟齬から来る不気味さに耐えられなかったのか?自分だけおもちゃを与えられなかったような居心地の悪さの中でそんなことを思い出した。

花嫁が父親と寄り添ってチャペル中央に足を運ぶのを拍手で迎えながら入場のBGMを奏でているオルガン奏者がその進行をチラチラと確認しているのが横目に見えて、もちろん花嫁側とも事前の調整があるんだろうけど、裏方の努力というか苦労みたいなものが一瞬垣間見えて感慨深かった。

その後の写真撮影でこういう親族勢揃い、つまり必ずしも黙ってじっとしていてくれるわけでない子供をあやす用意というのはタイムテーブル通りに進行する上で非常に重要なのかもなと思った。

長くなってきたからメインの披露宴の流れは省略。
自分の至らなさみたいなのを思い知るやりとりもあったけれど概ね酒飲んで飯喰ってで気分がよかった。幸せそうな人たちを肴に孤独と馴れ合って飲むお酒も悪いものじゃなかった。末永くお幸せに。

昼過ぎにはお開き。
有隣堂でブックカバーを調達する予定だったのが前日あまり寝ていなかったからホテルに着くなり眠ってしまってそれは叶わなかった。
トールサイズの入る安価なブックカバーがほしい。
Feel Like Making Love - Bob James